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がんと書くことについて

書くことの意味

血液がんの患者さん達と話をしていると、入院中や治療中にブログや日記を書いてる人が多くいることに気がつく。

私自身、入院中に自分と似た状況の人が書いたブログをいくつか読んでいて、入院と書き物は割と親和性が高いのかなと当時もぼんやりと思っていた。

みんな治療しながら書いてるので分量もそこまで長くないし、自分が現在進行形で体験していることに近いので親しみも湧きやすい。

周囲には中々理解してもらえない感情も、ブログを通して同じような気持ちになっている人がいるのだと思うと少し救われた気持ちになった。
あと、今後気をつけなければならないことやこれから起こりうることを知るために、ある種教科書のように眺めていた節もあった。

このような名前も顔も知らない誰かから助けられた経験をしているため、誰かのためになろうというモチベーションでブログを書き始める人は多いかもしれない。

私自身も入院中に日記とまでは言えないが治療の記録を付けていたし、退院後の自宅療養期間に日々のことを記録しておこうとブログを書き始めた。

もう一つ、ブログのように発信せずとも、書くことによって自分の状況を俯瞰で見られることが精神的にかなり良いのではないかと個人的に思っている。入院や不調で身体的には不自由でも、書くことである程度精神は自由になることができる。

ブログや日記を書く理由としてこれらのことを考えていたのだが、この前新たな側面に気がついたというか知ったというか諸々がリンクしたので共有しようと思う。

昨日と今日の差分を見つける

暇と退屈の倫理学」という本から20世紀を代表するイギリスの哲学者、ラッセルに関する文章を引用させていただく。

退屈とは何か? ラッセルの答えはこうだ。

退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである。

暇と退屈の倫理学

ここでの事件とは、今日を昨日から区別してくれるもののことである。

入院中は大抵の人にとって暇な時間が多くある。点滴や検査の予定はあれど、仕事も家事もやる必要がない。もちろん体調が優れない日も多くあるだろう。

同じ景色が見える病室のベッドに横たわり、限られたスペースの中で生活が完結する。

精神は完全に退屈しているわけである。

ブログを書こうとするとどうか。

些細な「事件」を見つけようとする。

何もしなくて良いのに、なにか違いを作り出そうとするかもしれない。

何か書けることがないかと思って世界を見ると、ほぼ何も変わらない日々の繰り返しでも、なんらかの違いが見えてくることもある。

少なくともそう考えながら周りを見渡した方が違いに気が付きやすい気がする。

そうやって細やかでも小さな何かが見つかったとき、無機質な部屋にいる自分の心に少しだけ血が巡るような気がする。

ABOUT ME
akky
悪性リンパ腫になって骨髄移植をしました。emaremo代表。甘党。漫画はONE PIECEとSKET DANCEが好きです。
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